法要・法事ってどう大事?

このところ、お祝いの場面では“サプライズ”が人気です。

驚きのエッセンスで嬉しさと喜びが倍増するのに対し、スタンダードな形式にのっとった儀式には、深い安心感や信頼感という、サプライズにはない良さがあります。

年上の友人に、『お祝いをする時のコツは照れずに思い切ってやること。中途半端な態度だと、お祝いされる方は“お義理”を感じて喜べないから』と教えられたことがあります。

法要・法事もまた、特定の人を想い、礼を尽くす儀式です。

今回のテーマは、故人を偲び、冥福を祈るために行う追善供養にあたる『法要・法事』です。

お祝い事と違い、楽しさには欠ける法要・法事…。

仕事、学校、プライベートの用事等、すべての都合に優先される割に、「どう大事なのか、深いところでピンと来ない」。それでも「とにかく神妙な顔をしていなくてはいけない雰囲気で気詰まり」「親戚と顔を合わせなくてはいけない面倒」なもの、というのが正直なところではないでしょうか。でも、お祝い事と同じく、亡くなった方を想って行う法要は、供養される故人だけでなく、する側の人間の為にもなるのです。

法事そのものの意義を知ることで、真心をもって参列できるよう、法要についてまとめてみます。

 

法事と法要

故人の冥福を祈りお経をあげてもらう追善供養を「法要」

法要の後の会食までを含んだものが「法事」となります。

読経やご焼香など供養の本番そのものが法要、親戚等の方々との食事まで含めた法要に関わる全般が法事ということになるでしょう。

 

 

 

 

 

どうして何回も法要をするの?

人が亡くなると、現世と来世の間の中有(ちゅうう)(中陰)という世界をさまよう旅に出ます。7日間ずつ、7回さまよい、7回の審判を受けます。(棺の中の故人に白装束を着せ、刀やお弁当を持たせるのはその旅に送り出す意味です)

中陰法要 四十九日法要までの7日ごとに行われる法要

初七日(7日目)~書類審査~

二七日・(14日目)~三途の川を渡る~

三七日・(21日目)~生前の邪淫の罪が裁かれる~

四十七・(28日目)~秤を使って生前の罪の重さを量る~

五十七・(35日目)~水晶の鏡に生前の行いが映る~

六十七・(42日目)~もう一度、秤と鏡で再審査~

七十七・(49日目)~最後の審判~ これで行先が決まる…がまだ助かる見込みはある!

百か日 四十九日の審判で地獄界や餓鬼界に落ちても、ここで助けてもらえるように供養する。

一周忌 年忌法要のなかで最も重要とされ、喪が明けるとされます。

三回忌 1周期よりも規模を小さくする傾向にあります。

 

三回忌まで10回の審査があり、別々の10人の王に裁かれます(5番目の鏡を使った王様が、かの有名な閻魔様)。亡くなってからこれほど審査を受けるなんて大変そうですが、それぞれの審査は王が死者をジャッジし、いじめているのではなく、救済の機会なのだそうです。救われる機会を応援し整えるのが、残された者ができる供養なのですね。

 

年忌法要 命日の1年後に勤めるのが一周忌。2年後が三回忌。

 

【一周忌】満1年目~【三回忌】満2年目~【七回忌】満6年目~ この七回忌あたりから法要の規模が縮小される傾向にあります

【十三回忌】満12年目~【十七回忌】満16年目~【二十三回忌】満22年目~

【二十七回忌】満26年目~【三十三回忌】満32年目~【五十回忌】満49年目

※三十三回忌、または五十回忌で弔い上げとします。

どんな罪を犯した故人でも、極楽浄土へ行けるようになり、荒御魂が祖霊となるという考えを「弔い上げ」と呼びます。葬儀をあげる世代が切り替わることにもよります。

ある葬儀社のアンケートによると、約60%の方が「法要は必要ない・必要かわからない」と思っているそうです。わかるような、でも、なんだか残念なように感じます。

 

追善供養とは??

追善供養とは故人の為にするものですが、生きる者の為にもなるものです。例えば、お祝いを例にして言うと、お祝いをされる方が主役ですが、お祝いをする側も、その人への愛情を確認したり、深めたりします。法要は、故人を偲び感謝する気持ちと、生きることへの覚悟をもてる場なのです。家族、親戚であれば、ご先祖様を想い、自分のルーツを感じる機会にもなるでしょう。ここまで見てきたように、1周忌、3回忌・・・法要を重ねるその間、生きる者は年を重ねます。

親しい人を亡くした人は、1周期で悲しみが消え去っていないとしても、1年の節目として気持ちの区切りをつけることができるでしょう。これが3回忌、7回忌と続く法要で、故人との思い出を振り返り、自分の人生と現状を見つめることができます。あの世へ逝った故人を想うことは、確実に自分はこの世に「生きている」ということの実感を抱きます。

また、その方が亡くなった時から法要の折りにつけ、「自分が成長する姿を見せていく、それが亡くなった方の供養になる」。そんな風に思えたら、参列するすべての方の力になるでしょう。法事とはその時間を参列した他の方々とも共有できる、貴重な場面なのです。

そうは言っても、地域や家々によって、時間や経済的な制約もあると思います。このところ、四十九日までの法要を繰り上げで行うことが多く、葬儀の後に火葬しすぐに納骨してお終いとするそうです。「葬儀や法要は身内で最低限にして」と言い残し亡くなられた方がいた場合も、遺されたご家族は親戚の目や批難があり、対面を繕って行う法要も多いようです。

そんな悲しい法要では、故人も浮かばれません。行うのであれば「お義理」ではなく「真心で」というのが大事になってくると思います。

葬儀の意義も意味もわからなかった子供時代(私は地方出身のアラフォー女性です)、法要を執り行う長男である父、そして母に、普段とは違う厳粛なふるまいを見て、なんとなく「いいな」と尊敬の念を抱いた記憶があります。それを、面倒くさそうに建前だけでやっていると、それは子供のみならず大人にもきっと伝わるものだと思います。

ほとけ便りが懇意にして頂いている京戸慈仁住職に、法要についてお話をお伺いしました。

質問:法要が簡略化されるなか、最低限、執り行うべき年忌法要はありますか?また、自由な形式の法要についていかがお考えですか?

京戸慈仁住職のお答え:

我々の立場からは、法要はここまでで良いとかに関してあまり多くを語れません。50回忌までしっかり追善追福のご法事をしていただきたいと思います。ただ、私個人の考えですが、法要儀式ですので、古式にのっとることは大切だと思います。参列者の心のあり方が法要儀式に反映されますので、そこを理解した上でのフリースタイルであれば良いかと思います。我々の祖先たちが構築してきた伝統的な法要を執り行いつつ、時代に合わせた新しいスタイルが理想的です。

真心をもって、追善法要をする。それが亡くなられた方、生きる者にとって、人生の貴重な時間になると思えます。少子化や長寿化という時代の変化に伴って、葬儀や法要のあり方も変わっていくことでしょう。悩んだり疑問に思ったとき、ご自身や祖先を想う心が深くなるような記事を、ほとけ便りがお届けできたらいいなと思います。